秋が深まり、今年もクリスマスが間近くなりました。
イエス・キリストのお生まれになったクリスマスについては新約聖書の初めに書かれています。けれども、はじめて聖書を手にされる方は、新約聖書の最初のページを開いたとき、そこに、これまでに聞いたこともない、だれだか知らないカタカナの名前が、ずらりと並んだ系図があるのにびっくりし、とまどわれるようです。
クリスマスのことが読みたいのに、どうしてわけのわからない、ちんぷんかんぷんの系図がでてくるのでしょう。こどもなら「系図なんてぜんぜん面白くないよ」と言うことでしょう。
しかし、なぜ聖書はイエス・キリストの誕生について系図から書き起こしているのか、わたしは、そこにとても大切なメッセージがこめられているように思います。
ところで、有田焼などの陶器で有名な佐賀県で、代表的陶工の方々がそろって現在十四代目だというのは興味深いことです。それは、その方たちの先祖が秀吉の朝鮮出兵の時代に朝鮮半島から捕らわれて日本に連れてこられ、それから十四代たったという歴史を物語っています。
(イエス・キリストの系図にも十四代という数字がでてきます。それは偶然とは言え、歴史のロマンをかきたてられる思いがします。)
系図によって、わたしたちは自分のルーツをたどることができます。もし、自分の系図がどこかで思いもかけない人とつながっているのを発見したら、わたしたちは大きな感動を覚えないでしょうか。
イエス・キリストの系図、それはイスラエル民族の先祖アブラハムへとさかのぼります。そして、さらにアブラハムの系図は、人類の先祖アダムへとさかのぼります。ですから、この系図は、イエス・キリストが全人類とのつながりの中に生まれてこられたことを物語ろうとしていることがわかってきます。
生まれ、さまざまな悲しみと苦しみを味わい、ついに死んでゆく宿命を負う人間、そのひとりとしてイエス・キリストも生まれてこられたのです。このお方が全人類の救い主であるということは、決して抽象的なことでなく、実に具体的な人と人のつながりの中で確かめられることだということを、聖書はこの系図を通して言おうとしているのだと思います。
神の御子、救い主イエス・キリストはわたしたちの近くに、わたしたちのひとりとして来てくださった!
そのことをクリスマスのときに、わたしたちも具体的な一人一人とのつながりの中で確かめ合い、喜び祝いたいと思います。(牧師 澤 正幸)