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  牧師からのメッセージ 2005年  
人は塵だから塵に返る

--- 2005年11月6日 永眠者記念礼拝説教 ---

「お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」 創世記3章19節

 今でも遺体を棺ごと埋葬する国では、墓地で創世記3章19節後半の聖句が引用されて祈りがささげられます。
「主イエス・キリストによる永遠の命へのよみがえりに対する確かな望みをもって、わたしたちは愛する者を全能の神の御手に委ねます。そして、その体を土にかえします。土から取られたものを土に、塵を塵に、灰を灰に返します。」
 美しい花はやがて枯れ、聳え立つ大木でさえ、朽ちて土に返る日を迎えます。動物も、およそ、生きとし生けるものはみな死んで土に返ってゆく定めを負っています。そして、人もまた例外ではありません。これは冷厳な事実です。
 「塵にすぎないお前は塵に返る」という主の言葉は、アダムとエバが禁じられていた木の実を取って食べた後、そのことを追求され、裁かれ、罰を宣告される中で語られています。それゆえ、死は人が神に背いた罪に対する罰なのだと言っているように読めます。
 しかし、問うてみるべきことがあります。もし、死が人の罪に対する神からの裁きであり、呪いだとすれば、わたしたちのだれひとりとして死を免れうる者はないのですから、わたしたちの人生はことごとく、神の裁きと呪いのもとにあると言わねばならないでしょう。果たして、神は人に対して死をもって自分の犯した罪を償うことをお求めなのでしょうか。人の罪は死をもってしても償いきれるものではないとすれば、これは人間的な言い方ですが、一体、神にとって人の死に何の意味があるのでしょうか。
 それゆえ、わたしたちはここでも弟子たちが道ばたで物乞いをする生まれながらの盲人を見て、主イエスに問うたあの問いと、それに対する主の答えを思い起こさざるを得ないのです。
「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
 最初のひと、アダム以来、わたしたちが死を免れず、塵に返らねばならないのは、アダムの罪、アダムと同じく負っているわたしたちの罪のためなのか。それに対する神の答えは、人の死は、人の罪に対する裁きや罰としてではなく、そこに神の業が現れるためだということです。
 ナチスによって収容所で銃殺されていったボンヘッファーという神学者が若き日に書いた創世記註解に次のようなことが書かれています。
 「死、すなわち最後の恐れと呪いとして人間に背負わされる死、この塵へ返るべき必然性は、今や恵みの神の約束である。この塵となる死はアダムにとって現在のあり方「神のようになる」あり方の死と理解されなければならない。「死の死」これが死の持つ約束としての性格である。「死の死」が決して無ではなく、生ける神であり、生であり、キリスト御自身にほかならないこと、この死における約束において、死の終わりが、死者の復活が語られている。死の平安のうちに、母なる大地への帰還の平安のうちに、やがて神が地に全うされようとする平和が、復活の世界という祝福された新しい地に打ち立てようとする平和が、既に告知されているのを、わたしたちはキリスト、すなわちアダムとしての死を死に、その死を滅ぼし終わらせてくださったキリストを通して知るのである。」
 キリストは十字架で最期に「終わった」と言って息を引き取られたとヨハネは伝えています。主イエスにとって、死において迎えた終わりは、その血の最期の一滴を注ぎ出すまで貫き通された神への服従、その戦いの終わりをいみしています。わたしたちは、イエス・キリストの光の下で、その十字架と復活の光に照らされることにより、自分自身の死を新しく見つめ直すことが許されます。そこで、自分の死と、死に至るまでの命を新しく受けとめ直すことができます。すなわち、わたしたちにとっても、死に至るまでの行程は、自分との戦い、自分の罪との戦い、この世を支配する諸々の霊力との戦いであり、その戦いを最後まで戦いぬくためのものであるということです。
 「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。」
 アダムは土(アダム)を耕し、顔に汗してパンを得ます。それは生涯、終わることのない雑草との戦いです。それは人間の罪を象徴しているかのようです。雑草を取っても、取ってもあとから生えてくるように、人(アダム=土)のなかから罪は根絶できないのですから。(ルターも畑に生える雑草のような人の罪を、剃っても、剃っても、死ぬまで生え続けるヒゲになぞらえました。)しかし、その死に至るまで続く罪との戦いはもはや、絶望や、虚無のもとにではなく、主イエスのあの励ましと慰めの御言葉のもとにあるのです。「あなたがたはこの世にあっては苦難が多い。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:23)
 この約束のもとで、わたしたちが罪と戦いつつ生きる生涯とその労苦は空しいものではないのです。なぜなら、神は「顔に汗する」労苦を通してわたしたちにパンを賜り、互いを生かし、喜ばせる、もろもろの良きものを労苦の実として与えてくださるからです。わたしたちはこうして、悲しみを乗り越え、根気よく、力の限り働き、仕え続けることによって、神がやがて、わたしたちを罪から全く自由にしてくださる天国をわたしたちが信じ、待ち望んでいることを証しするのです。

 「わたしたちの死はわたしたちの罪の償いなどではなく、ただ罪からの死に別れと永遠の生命の門口なのです。」ハイデルベルク信仰問答42問。
                              牧師 澤 正幸

 

 

    ● 最終更新日: 05年12月31日 (土)

 
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