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  牧師からのメッセージ 2006年  
「道」

 日本キリスト教会の教会は地域ごとに複数の教会で、「中会」という組織をつくっています。福岡城南教会は九州・沖縄にある17教会が形成する「九州中会」に属しており、九州中会が毎年一回定期の会議をひらく時は、代議員を送ります。ここに収録された説教は、さる3月22日、柳川教会で開かれた第54回九州中会開会礼拝で牧師がした説教です。

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 第54回九州中会開会礼拝説教
 「道」
 使徒言行録19章21〜40節
 澤 正幸

 銀細工師デメテリオを首謀者とするエフェソでの騒動は、「エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域」(26節)においてパウロが、「手で作ったものなどは神ではない」と御言葉を宣べ伝えたせいだと、かれの活発な伝道活動がやり玉にあげられた。確かに、アジア州の中心都市エフェソを拠点とするパウロの2年間に及ぶ伝道は、「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。」(10節)と記されるほど勢いをともなっていたのであろう。しかし、それはパウロ個人の活動によるものだったのだろうか。そうではなかったのではないか。ヨハネ黙示録にエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアのアジア州の7つの教会があげられているように、そして、後に、パウロが海路エルサレムに向かう途上、ミレトスにエフェソの長老達を呼び寄せたとき、かれらは「群れの監督者に任命」された者たちと呼ばれるように、エフェソのみならずアジア州の各地に教会が建てられ、今日の教会の牧師や長老にあたる奉仕者たちが存在していたと考えられる。つまり、エフェソでの騒動を引き起こしたのは、使徒パウロ単独の伝道活動ではなく、複数の教会とそこに仕える長老たち、すなわち今日の中会のような形をとる伝道の働きが初期からあったことによったと想像されるのである。
 翻って、その御言葉が宣教されるエフェソとはいかなる地、いかなる社会であったか。エフェソの町は「偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役」と言われるごとく、その社会、経済の中心にアルテミス信仰があった。ここ柳川や久留米、八女といった筑後地方の町々の中心には何があるだろうか。伝統的宗教を中心にした古い共同体を前にしての伝道は、使徒パウロ同様、今日なお、わたしたちの課題でもある。
 しかし、使徒言行録19章でわたしたちが聞くのは、教会による、一致した使徒的宣教が、エフェソのような伝統的異教社会を根底から揺るがせたということである。今日は、ここから二つのことをともに聞き取りたいと思う。

 デメテリオはエフェソの人々の危機感を募らせようとして、「パウロたちの伝道により、自分たち銀細工人は仕事を奪われ、アルテミス神殿はないがしろにされ、ひいては女神アルテミスの威光が失われる。このままでいいのか」と訴える。わたしたちはここに、真の宗教と偽りの宗教、真の神信仰と偽りの神信仰の違いを見る。果たして人間に支えられなければ立って行けないような宗教は真の宗教と言えるのだろうか。まことの神の栄光は、たとい人間によって讃えられなかったとしても、それで減じたり、失われたりはしない。それは、永遠から永遠まで、神が神御自身のゆえに御名に帰すことのおできになるものである。もし、アルテミス神の威光が失われるとすれば、それはアルテミスが人間の手で造られた偶像にすぎないことを露呈しているのである。
 しかし、この宗教批判の刃は他に対してでなく、わたしたち自身に向けられねばならない。すなわち、昨今、教会の教勢が低迷し、伝道が進展しないことをもって、キリスト教に対する危機感を抱くことがわたしたちの間でもあるからである。そのとき、教会に集まる人数が減り、教会堂がさびれて閉鎖されるようなことがあったなら、それで神の栄光は失われるのだろうか。否、それで失われるような栄光は神の栄光ではない。神は生きておられる。神は人間の手によって支えられなければ倒れてしまう偶像ではない。
 23節でキリスト教のことを「道」と呼んでいる。キリスト教を、またその信仰を道と呼ぶのはまことにふさわしい。なぜなら、キリスト教信仰は立ち止まって思いめぐらすだけの観念や思想ではなく、具体的に歩くことだからである。イエス・キリストが歩かれた足跡をたどって、キリストに従って自ら歩き、歴史の中に道を形づくることだからである。
 信仰者が迫害のために散り、地下に潜伏し、教会が倉庫になって閉鎖されたことが歴史上何度繰り返されてきたことか。しかし、苦しみを受け、十字架につけられて殺されたのに、三日目に復活されたイエス・キリストの教会は、イエスのたどられた「道」をたどって、復活してきたのである。そのような歴史がロシアでも中国でも見られたし、北朝鮮でもきっと見られるであろう。会堂が閉鎖され、牧師の家族が路頭に迷ったとしても、神の栄光が失われることはなかったのである。まことの神の栄光は、繰り返しキリストの十字架と復活の栄光として示されてきたのである。

 もうひとつのことを学びたい。32節以下に、混乱に陥った集会の中で、アレクサンドロというユダヤ人が釈明を試みたことが書かれている。何に対しての釈明かというと、今回の騒動の原因となったパウロの伝道と、自分たちユダヤ人とは立場が違うのだということをエフェソの人々の前で明らかにしようとしたのだと思われる。ところが、興奮した群衆は彼がユダヤ人であると知っただけで、一言の釈明も許さず、かえってアレクサンドロの振る舞いは、群衆の怒りに油を注ぐことになってしまった。
 苦境に立たされている人がいるときに、だれかが、全面的に立場を同じくするわけでもないのに、自分はその苦境に立たされている人の味方だと言ってくれることにまして心強く、励まされることはないし、反対に、自分はあの人とは関係ないと言うことほど、苦境に立たされている人を絶望へと追いやることはない。ユダヤ人はこの時、自分たちはパウロとは関係がないと弁明しようとしたが、わたしたちは残念なことに同じことが歴史上何度も繰り返されてきたことを知っている。戦時下、ホーリネス教会が再臨信仰のゆえに特高の迫害を受けたとき、それを幼稚な神学といって冷淡に突き放したのは、わたしたち日本キリスト教会の先輩教職であった。
 中会の会議は、教理、神学について、また教会における伝道や実践について吟味される場である。誤りや過ちは正されねばならないし、責任は追求されなければならない。しかし、教会の会議としての中会は、イエス・キリストがかしらであり、現臨される会議である。その御方は、最後の夜、ペテロが主を三度知らないと言ったにもかかわらず、そのペテロを知らないとは言われなかった。かえって、かれの信仰が無くならないように祈り、かれの罪を負って死なれた御方である。教会は、主を知らないと言ったにもかかわらず、主が知らないとは言われなかった教会として、悔い改めの教会なのである。その教会の会議は、互いに兄弟の罪や過ちを指弾して、わたしはあの者を知らないという場であってはならない。いと小さいもののために死に、その者をわが兄弟と呼ばれる主の御前で、罪の赦しの恵みにあずかり、和解と御国の喜びにむけて悔い改めを新たにする会議でありたい。
 

 

 

    ● 最終更新日: 06年03月29日 (水)

 
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