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  牧師からのメッセージ 2006年  
今村カトリック教会を訪れて

  その人は流れのほとりに植えられた木、
  ときが巡りくれば実を結び、
  葉もしおれることがない。     詩編1:3

 遠藤周作著「沈黙」の舞台は長崎の外海という地区で、今日そこには遠藤周作文学記念館があるが、そこを訪れる者は、そこが地の果てというか、あとは海を渡って五島列島にのがれるほかないような、いかにも追い詰められたといった印象を受ける土地である。今日外海には、明治になってからのフランス人神父ドロによる熱心な努力と宣教活動で、立派な会堂をもつ教会が存在している。かつて徳川幕府による厳しい禁教政策によって信仰を捨てるか、さもなければ隠れキリシタンとして生き残るか、それ以外選択の道がなかった時代から、250年もの歳月が流れ、再び教会が地上に姿をあらわすに至った歴史は聞く者に深い感動を与えずにはいない。
 「隠れキリシタンと言えば長崎」、という先入観念を抱いていたわたしにとって、筑後平野のど真ん中、まさにどこにも隠れようのない今村に、明治になるまでキリシタンが隠れ潜んでいたと聞かされても、にわかには信じられない思いだった。しかし、今村にも本当に隠れキリシタンが存在したのであり、明治になって名乗り出た信徒の数は4千人とも、7千人とも言われる。ともかく、何千人という規模でそのような集団が生き残っていたことに驚かざるを得ない。
 それにしても、長崎の隠れキリシタンの歴史があれほど有名で知られているのに対し、なぜ、今村については知る者が少ないのだろう。
 夏に日曜学校生徒を連れて、また今回、婦人たちと再びそこを訪れて思ったことは、今村で信仰に生きる人々にとって、今村は観光地でなく、自分たちの歴史をことさら宣伝するために信仰生活を送っているわけではないということである。物見高い好奇心を抱いて訪れる人々を歓迎する気も、ましてや物珍しい教会として見られることを喜ぶはずがない。
 そのことに気付かされて恥ずかしく思うとともに、神さまのなさることへの畏敬をいよいよ深められる思いがした。

 

 

    ● 最終更新日: 06年11月19日 (日)

 
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