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  牧師からのメッセージ 2006年  
わが神、わが神

 「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか」。(詩編22編1節)
 聞く者の耳にこれ以上悲痛な叫びはないと思われるほどの響きをもってこの詩は祈り始められます。心を締め付けられるような絶望感を漂わせて始まった詩編22編は、しかし、途中で調べが変わり、最後は輝きに満ちた限りなく力強い賛美で閉じられます。その転換点は22節と23節の間に来ます。その転換を明示するような形で22節を次のように訳する翻訳もあります。
 「獅子の口、野牛の角からわたしを救い出して下さい。あなたはついにわたしに答え給いました。」(関根正雄訳)
 詩編22編冒頭の「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか」との叫びは主イエスが十字架上で最期に声高く祈られた祈りとしてわたしたちの記憶に刻みこまれています。それゆえ、わたしたちは詩編22編をキリストの十字架の苦しみから切り離して読むことができないのです。けれどもこの詩編が22節を境に転換するように、わたしたちはこの詩編の前半をキリストの十字架の苦難の死と結びつけるだけでなく、その後半部をもキリストの復活と昇天に結びつけるべきでしょう。
 それゆえ、この詩は「その苦難が底しれず深く、その体験した救いが限りなく深かったのに応じ、その讃美は限りなく広がり、『地の果て』の者にまで及び(28節)陰府にある者にまで及ぶ(30節)」(関根正雄)と言われるように、その嘆きを御自身の嘆きとされたキリスト、わたしたちの絶望を担ってだれよりも深い絶望を味わい、だれよりも低く陰府の底にまで下られたキリストと結びつくとともに、陰府の底から引き上げられ、墓を打ち破り、天に上げられたキリスト、すべての者がひざまずき、すべての舌が誉め讃えるべき主イエス・キリストとも結びついているのです。

 詩人はこの詩の中で神に向かって繰り返し「わたしの神」と呼びかけています。詩人は神について三人称で語ることをしません。それは苦しむ詩人を冷笑する人々がすることです。
 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けて下さるだろう。」(9節)
 しかし、詩人にとって神はつねに二人称で呼びかけるべき「わたしの神」なのです。
 「母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。」(11節)
 わたしたちのうちだれ一人「産みの母」を持たない者はおりません。「わたしの母よ」と呼びかけるべき人を持たない者はいないのです。それと同様、母の胎内にわたしを造られた神を「わたしの神」として持たない者も一人もいないのです。神に向かって「わたしの神よ」と呼ぶことはすべての者に許されていることなのです。
 今、詩人はその「わたしの神」に向かって呼びかけているにもかかわらず、聞かれない、答えられないとの嘆きを訴えています。
 「わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」(3節)
 神への呼びかけが聞かれないと嘆く詩人の嘆きにわたしたちは共感します。しかし、ここで考え合わせたいことが一つあります。それは人が神にむかい「わたしの神よ」と呼ぶ呼びかけは、「わたしの神」が「わたし」を呼ぶ呼びかけに重なっているということです。「わたし」が「わたしの神」を呼んでも、その呼びかけに神が答えてくださらないということと、合わせ鏡のように、神が「わたしの神」として「わたし」に呼びかける呼びかけを、わたしが聞かず、知らず、心にとめようとすらしないということがあるのです。そのことについて、また神が御自身の心からの呼びかけを無視され、拒絶されることによって抱かれるに違いない幾倍もの絶望感をわたしたちは考えることがあるでしょうか。呼びかけに応答があるのが「生」であり、ないのが「死」です。わたしの呼びかけに「わたしの神」が沈黙し答えられないならそれはわたしにとって死を意味します。それと同時に「わたしの神」からの呼びかけに「わたし」が答えないなら、わたしもまた神にとっては生きながらにして死んでしまっているのです。
 詩人は神が呼びかけに答えてくださらない苦しみの中で、ついに死んで行こうとします。
 「あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」(16節)
 しかし、それでも詩人は神に対して「あなたはわたしの神です」と告白し、呼びかけることを止めないのです。「たといあなたがわたしを塵と死の中に置かれようとも、神よ、わたしにとってあなたはなおわたしの神であられます。」
 この詩人の信仰は神の思いに通じるのです。なぜなら御自身「だれの死をも喜ばない」(エゼキエル18:32)神にとって、わたしが塵と死の中におかれたとしても、わたしは依然としてそこから「わたしの神」にむかって応答することを期待され、呼びかけられるべき相手であり続けているからです。神は今もすべての者から「わたしの神よ」と呼びかけられるのを燃える思いで待っておられる御方です。死の塵に下った者にとってさえ「わたしの神」であることを止められない御方なのです。あのいなくなった放蕩息子の帰りを待ちわびる父のように!

 神は生きている者にとっても死んだ者にとっても「わたしの神」であるという、この救いがすべての者に及んでいるというのは本当でしょうか。それが本当であることの証明として神がこの世界におかれたものが教会です。教会はまさに放蕩息子が帰ってきたとき、父親が「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って喜び祝った、その喜びそのものです。イエス・キリストがすべての者のために死んで復活されたことにより、どんなに深い絶望も、どんなに大きな罪も悲惨も過ぎ去らせられたのであり、わたしたちに対し神は「わたしの神」であると宣言されたことの証拠として教会はこの世界に存在しています。教会があるのはこの福音のためです。ですからわたしたちはすべての人にこの福音を伝えましょう。
「地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。・・わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。」(28、31〜32節)
                           牧師 澤 正幸


 

 

    ● 最終更新日: 06年12月03日 (日)

 
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