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  牧師からのメッセージ 2007年  
主を待ちながら生きること

  「だから目を覚ましていなさい。
    いつ家の主人が帰ってくるのかあなたがたには分からないからである。」
                               マルコ13:35

 「主人は必ず帰って来る。ただ、それがいつのことかはわからない。だから目を覚まして待っていなさい。」
 主イエスは主人の帰りを待つ家僕のたとえによって、わたしたち信仰者が主イエスの再臨を祈りつつ待つことを教え、またお命じになる。
 信仰者と称しながら主イエスの再臨を信じていないなら、それは論外である。ただし信仰者と称し、主イエスの再臨を信じてはいても、その信仰が観念に過ぎない場合、その信仰が日々の生活に全く結びついていないなら、それは眠っているのと変わらないであろう。
 では、目を覚ました生き方とはいかなる生活の仕方だろうか。
「明日、世の終わりが来るとしてもわたしは一本の林檎の木を植える」と言ったと伝えられる人がいるが、キリストが明日おいでになるとしても、家僕が主人からそれぞれに割り当てられた責任を果たしながら主人の帰りを待つように、わたしたちも何か特別なことをするのでなく自分たちが為すべく与えられた日常の務めを誠実に果たすことこそが目を覚ました生き方なのではないだろうか。自分の果たすべき責任が主に褒めていただけないような成果しか挙げられないとしても、いやそれどころか惨憺たる状態であったとしても、主が来てくださること、わたしたちの助けであり救い主である主の到来こそが最終的な解決であることを希望として、主を待ちながら生きること、それが目を覚ましていることではないか。
 主がいつの日か来てくださる。それゆえに一つ一つのことを希望のうちに祈り、一つ一つを感謝し、一つ一つを忍耐する。
 前回の祈祷会で、わたしたちのために常に目を覚まして祈ってくださる主を見上げることが、目を覚ますことではないかということを教えられたが、今日は、「御国を来たらせたまえ」と祈れと命じられた主は来たりつつある主であることを覚え、その主に向かって「アーメン、主イエスよ来たりませ」と祈ることが目を覚ますことであることを学びたい。
                          (2月7日祈祷会奨励より)

 

 

    ● 最終更新日: 07年02月24日 (土)

 
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