「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
(ルカによる福音書22章31、32節)
受難週は弟子たちにとって、その信仰が小麦をふるいにかけるように試される時だった。かれらの信仰が見せかけだけで実の入っていない籾殻のようなものかどうか、火に投げ入れられて滅ぼし尽くされるようなものかどうかが明らかにされる試練の時だった。
教会も受難週を迎えるたびに自分たちの信仰が試され、その結果信仰が危機に陥る時が襲ってくることを思い起こさせられる。
そのとき、わたしたちは主イエスの御言葉によって大きな慰めを与えられる。それは、わたしたちを襲う信仰の試練や危機は「サタンが神に願って聞き入れられた」ことによって起こっているということである。神はサタンの願いを聞き入れ、わたしたちの信仰が試されることを許可された。わたしたちの信仰の試練や危機は神のあずかり知らないところでおこっているのではなく、神の許しのもと、それゆえ確かな顧みのもとにおかれているということは、何という慰めに満ちたことだろう。
しかも、サタンの願いを聞き入れる神はそれにまさって主イエスの願いに耳を傾けてくださる方なのである。主イエスがわたしたちの信仰が無くならないようにと執り成し願う祈りを聞き入れてくださるのは、ほかならぬわたしたちの父なのである。
ローソクが水浸しになり芯まで湿って二度と火をともせなくなってしまう、そんな状態になったペテロの信仰がどうして無くならずにすむのか。ペテロのうちに再び明るい信仰の炎が灯されることはどうして可能なのか。それは主イエスの中に最後まで保たれた信仰の炎、死の恐怖を前にしても消えることも失われることもなく、ついに復活の栄光に入ってゆかれたあの明るい信仰の炎がペテロの中に移し灯されるからである。
わたしたちも主イエスの執り成しの祈りによって信仰を保たれている者たちである。そして、この執り成しの祈りの中に信仰の試練や危機に陥っている兄弟姉妹たちが今も覚えられている。わたしたちも主の執り成しの祈りにあわせて、兄弟姉妹のために祈り、彼らを力づける者として仕えよう。