イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
二人はすぐに網を捨てて従った。
マルコ1:17-18
マルコ福音書はペトロが晩年、自らの見聞に基づいて語り伝えた証言をもとに書かれたと言われている。ガリラヤ湖で兄弟アンデレと肩を並べて網を打っていた時、岸辺を通りかかった主イエスから声をかけられ、主イエスに従っていった日のことを、何十年経っても、ペトロは昨日のように鮮やかに思い起こしたであろう。だが、ペテロにとって、過去のある時点に置いて始まった主イエスへの服従は、生きている限り決して終わったことではなく、常に、今日という日がまたあらたに主に従って行く日であったはずである。
主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:23-24)と言われる。
主イエスのあとについて行くことは、「日々」のこと、一日、一日の歩みである。そして、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」主イエスのあとに従う歩みである。先頭を歩み行かれる主イエス御自身が十字架を負って進まれる以上、その後につき従う者たちの歩みはそれ以外ではありえない。
しかし、十字架に向かって進まれる主イエスのあとに最後までついて行けた弟子はひとりもいなかったことを聖書ははっきりと伝えている。ペトロたち弟子たちにとって十字架の道は躓きであった。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」とひとり言い放ったペトロは再起不能同然の挫折を味わった。
ペトロはガリラヤ湖のほとりで主イエスから召しの声を聞いたあの日、確かに主イエスに従って行くことを決断し、網を捨てて主に従って行った。しかし、問題はその服従が最後まで貫けるのか、中途で終わってしまうのかにあった。そして、それはペトロだけの問題でなく、わたしたちすべてにとっての問題なのである。
主イエスは従うペトロに「人間をとる漁師にしよう」と言われた。魚をとっていたかれらがこれから人間をとるということが何を意味するのか、その時ペテロたちに理解できたとは思われない。しかし、この情景全体を遠くから、距離をおいて眺めると、「人間をとる漁師」としてここに登場しているのが主イエスにほかならないことに気付くのではないか。まさに主イエスこそこの日、二組の兄弟を、「人間をとる漁師」のように召して行かれたことをこの箇所は語っている。
だとすれば、主イエスがペテロたちに「あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と言われたのは、主イエスがかれらを御自身がそうであるところもの(「人間をとる漁師」)にするとの約束だったことになる。主イエスがそうであるところのものに、主イエスに従う者たちがなるということについて、ヨハネ福音書15章の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」を思い起こし、重ね合わせれば良く理解できるのではないか。主イエスはぶどうの木、主イエスにつながっているなら、わたしたちもぶどうの木の一部、まさにぶどうの木そのものなのである。しかし、ぶどうの枝が、木につながっていなければ自分では実を結べないように、わたしたちも主イエスを離れては何もできないのである。
弟子たちが「人間をとる漁師」でありうるのは、「人間をとる漁師」である主イエスにつながっている限りにおいてである。主イエスを離れては「人間をとる漁師」として何もできない。なお厳密に言えば、人間をとる漁師であるのは主イエスのみであって、弟子はその業を手伝うことが許されるにすぎない。
主イエスのあとに従って行くこと、そのことについても、父なる神に最後まで服従を貫かれた主イエスが、「わたしがそうであるところのものに、あなたがたをしよう」と約束してくださる恵みによって、わたしたちは主イエスに最後まで従って行くことができるのである。主イエスは「御自身」をわたしたちにお与え下さる。それが聖晩餐においても、洗礼においても目に見える形で差し出されている。わたしたちは、「主イエスがそうであるところのもの」を恵みとして日々新しく差し出される。その恵みがわたしたちのうちに満ちるなら、わたしたちは感謝と讃美と服従の実を結べるのである。
そのことを信じ、また感謝しつつ、主イエスのあとに喜ばしく従い、神に栄光を帰してゆこう。