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  牧師からのメッセージ 2010年  
「受胎告知」ルカによる福音書1章26〜38によって 11/28 礼拝説教

「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」
                         ルカによる福音書1章38節 
「受胎告知」は西洋絵画の画題として取り上げられています。翼をもった天使ガブリエル、ひざまずいて御告げを聞くマリア、二人だけの部屋、屋外の景色、しかし、そこに描かれていることの大部分、翼をもった天使の姿にせよ、部屋の情景にせよ、それは聖書には書かれていない、画家の想像の所産です。聖書が記しているこの場面には、華やかさとか、神々しさを感じさせるものは殆どなにもありません。ナザレというガリラヤの寒村、そこに住む名もない一人のおとめ。このときマリアは何歳だったのか。既にヨセフという婚約者がいたというのですが、ある人は12歳位だったと想像します。現代の感覚とは遠く隔たった昔のことです。それにしてもまだうら若い、幼ささえまだ残っていたかも知れないマリアに、突然御使いガブリエルが訪れ、彼女に告げたことは、マリアを驚かせずにはおかなかったに違いありません。はるか隔たった時代に生きているわたしたちにも、それは十分理解できます。ガブリエルが彼女のもとを訪れたとき、きっと彼女は一人きりだったでしょう。戸惑いと共に、心細さや不安が伝わってくるようです。
 女性が、しかもこの時のマリアがそうだったように、初めて出産に臨む場合、それは懐妊を知ったときの驚きにはじまり、つわりや胎動を感じると言ったさまざまな体の変化を経て、ついに命がけの出産に臨む、これら一連のことには、生命の神秘というか、深い感動や驚きが満ちています。テモテ第一の手紙2勝15節に「婦人は信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」とあります。出産がそれを体験する本人にとって神との深い交わりと、救いを経験する出来事になるということを、この御言葉は語っているのでしょう。
 天使ガブリエルが告げた、マリアが身ごもって男の子を産むということはマリアとガブリエル以外、だれ一人あずかり知る者はこの世界にいないのです。それは最も密やかな事柄です。マリアはそれゆえ、この世界でたった一人、この出来事を担わなければなりませんでした。
 そのようにしてマリアから生まれてくる子は無力です。神の子としての約束をもち、神のご計画の中で、全世界の救いに対する期待を担って生まれてくるみどりごは、しかし、母マリア以外に守ってくれる存在はいないのです。果たしてマリアは生まれてくる子を守ってやることができるのでしょうか。いいえ、そもそも、マリア自身、わが身の安全を保証されるでしょうか。周囲の人々の間では。だれ一人自分が担わされている役割を信じてくれない中で、彼女はどうやって生きぬくことができるでしょうか。おおよそ、神の子がマリアから産まれるという神の計画自体、果たして可能なのか。どう考えてもそれは不可能なのではないでしょうか。
 「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男の人を知りませんのに。」
マリアは正直に、率直に胸の内をガブリエルに向かって打ち明けます。それに対しての御使いの答えはこうでした。
 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
 「いと高き方の力があなたを包む」。「包む」は原文では「かげとなっておおう」という言葉です。強い陽射しも屋根が日蔭をつくり、旅人は木陰に佇んで休むことができます。雌鳥が外敵から守るために雛をその翼のかげに入れて守る。そのように、聖霊が降り、神の力はかげとなってマリアを守る。人々の中傷と誤解から、あらゆる危険からも彼女を守る。また生まれ出てくる子も、マリアの必死の努力によって守られるというのではなく、聖霊による神の力が、生涯変わることなくかげとなって、彼を守り、育ててくださるというのです。
 御使いは言葉を継いで、孤独だったマリアの側近くに、彼女の理解者、味方、支え手として神が親族のエリサベツを与えて下さっていることを指し示しました。
 「あなたの親類エリサベツも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」
 とうてい不可能としか思えない中で、神はその不可能を可能にしてゆかれる御方であることを、身をもって示してくれているエリサベツがマリアのために、神の計画の中で備えられていました。
 マリアは答えます。
 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」
 マリアのこの言葉はエリサベツを見たあとで発せられたのではありませんでした。エリサベツに会う前に、ただ、神の言葉を聞いて信じて、こう答えたのです。そして信仰に立って神に従おうと決断した、そのマリアにとってエリサベツとの出会いが支えとなり、励ましとなったのでした。

 この物語からわたしたちが聞くメッセージは何でしょうか。
わたしがかつて仕えていた袋井の教会の近くに、遠州灘に面した古い港町で、横須賀というところがありました。江戸時代、回船問屋などがあって栄えた小さな城下町です。しかし、明治に入って鉄道の時代になってからは寂れる一方で、今は、過疎の町になっています。その町に住む人からかつてこういう言葉を聞きました。「横須賀の町にはキリスト教の教会はついに育たなかった。」近隣の町と同様、ここにも明治以来キリスト教の伝道はなされたけれども、近くの掛川や袋井、磐田には教会が小さいなりにできたけれど、ここ横須賀だけはできなかったという意味です。地方の僻地にある小さな村や町に、伝道がなされたとしても果たして教会は育つだろうか。
 教会だけでなく、信仰者が育つだろうか。都会であろうと僻地であろうと、そもそも場所に関りなく、人が信仰を持つようになると言うこと自体が可能だろうか。また、信仰者のこどもたちが信仰をもつ者に育って行けるだろうか。
 わたしたちが今日聞くメッセージは、不可能と思われる中で、マリアに神から「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と語りかけられていると言うことです。人間的な意味で条件が整っているから、神の計画が可能となったのではありませんでした。人間の常識で考えて当然そうなるだろうと予想される中で御子がマリアから生まれるということが実現したのではありません。わたしたちが信仰者とされること、信仰者として生きてゆくことも、人間的に見て十分可能性がある中で、それがおこるのでしょうか。わたしたちのこどもが信仰者になるということも、それが好条件に恵まれて、理想的な環境で育つ結果、可能になるのでしょうか。反対に、そのような条件を考えると悪条件ばかりで、とうてい不可能だと思わざるを得ない、そういう中では実現しないことなのでしょうか。人間的にはどれほど不可能だと思われても、神はわたしたちにただ、「聖霊があなたに降り、神の力があなたのかげになってあなたを守る」と告げ、そのお言葉どおりに約束を守られるので、不可能が可能となるのです。神はわたしたちを聖霊の力のかげのもとに、守り、導き、育てて下さるのです。
 マリアにエリサベツが与えられたように、わたしたちもわたしたちの信仰を支える、信仰の証人を側近くに与えられています。神にできないことは何一つない。神が不可能なことを可能にしてゆかれる御方であること、その最大の証人としてわたしたちに与えられているのはだれでしょうか。それは聖霊によってみごもられ、おとめマリアから生まれてきたイエス・キリスト、御自身です。わたしたちがキリスト者として生まれる、わたしたちのこどもたちが信仰者として育つことが、どれほど不可能だと思われても、それが可能とされることの、一番大きな心強い支え、しるしはこのアリアから生まれてこられたイエス・キリストです。
 受胎告知の物語、それはマリアの信仰の物語です。マリアはたった一人、世界でまわりに彼女以外だれもいない中で、神に向かって信じますと答えて従い始めました。しかし、マリアはその自分がエリサベツを初め多くの信仰者の群によって囲まれていることを知るようになります。マリアは今日、あのマリアが最初にたった一人で信じたことを、世々の教会が使徒信条によって「主は聖霊によってみごもられ、おとめアリアより生まれ」と告白しているのを聞いて何と思うことでしょう。
 わたしたちの信仰も同じです。使徒信条は「われは信ず」と、一人称単数で、わたしがひとり神に対して告白する告白です。この世界でたった一人自分が神に向かって信仰をもって従うことです。でも、それはおびただしい信仰者の群に囲まれて、その共同体の中で、喜びと、励ましに満ちてなしうる告白なのです。  福岡城南教会牧師 澤 正幸

 

 

    ● 最終更新日: 10年11月30日 (火)

 
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