2011年のクリスマスを、暗く悲しい出来事のあった年のクリスマスとして、今なお悲しみと痛手から立ち上がることのできない多くの人々が苦しんでいる中で迎えるクリスマスとして、どこにクリスマスの主、この世の救い主イエス・キリストの誕生の喜びを見いだすことができるのかを、自らに問わずにおれない中で迎えました。救い主の誕生を告げる星はどこに輝いているのでしょうか。今年のクリスマスを迎えるにあたり、そのような思いを抱かずにおれません。
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(1節)
そのとき、救い主の誕生を告げる星が輝きました。その星を見て、占星術の博士たちが東の国からエルサレムにやって来ました。けれども、その占星術の博士たちがエルサレムに着いたとき、エルサレムにいたヘロデ王も住民たちもメシアの誕生を告げる星が現れたとの知らせをはじめて聞いて驚いたのでした。彼らがやってくるまで、エルサレムの人々は、指導者も住民も、だれ一人そのことを知りませんでした。もし、このとき、かれらがやって来なければ、ユダヤの人はこの事実に全く気づかず、やりすごしただろうということです。ここに問題の核心がありました。
主イエスは、ヘロデ王の時代にベツレヘムで生まれた。
主イエスが生まれたベツレヘムという場所は、博士たちからメシアが生まれたと聞いて、ヘロデがあわてて祭司長たちや律法学者を集めて、メシアがどこに生まれるかと問いただし、ようやくそれがベツレヘムであるとの答えを得るまで、ベツレヘムは全くと言って良いほど、人々からは忘れられた、注目されることの無かった場所でした。当時の人々は救い主、メシアの到来を待ち望んでいたのでしょうか、その誕生を強く待望しながら生きていたのでしょうか。当時の人々の間に、救い主に対する願望が強く息づいていたとしても、ヘロデ王という存在の前では、そのような願望は頭から押さえつけられ、覆い潰されていたとしか言えなかったでしょう。ヘロデ王はユダヤの正統な王ではありませんでした。神の民にふさわしい、神によって立てられた王ではなかったのです。ヘロデは外国、すなわちユダヤを支配していたローマによって王座につけられた傀儡でした。もし、神から立てられるユダヤ人の真の王が出現するならば、ヘロデはただちにそれに敵対し、滅ぼそうとする危険きわまりない人物でした。
救い主がヘロデの時代に、すなわち最も暗く、最も危険で、メシアに対する敵意に満ちた時代に生まれたとしても、しかも、その誕生の出来事がベツレヘムという人々から忘れ去られ、振り向く人もいない小さな町で起こったとしても、ユダヤではだれ一人気づかず、それを歓迎しなかったということを、今日の聖書は物語っているのだと思います。占星術の学者が、救い主が生まれたことを示す星を見たとのニュースをもたらしたとき、ヘロデやエルサレムの住民が示した反応は、喜びでもなければ、歓迎でもない、およそそれとは正反対の不安でした。また、ヘロデ王が祭司長、律法学者たちからメシアの生まれる場所はベツレヘムだと聞き出した後、博士たちがベツレヘムに向かって出立しようとしたとき、エルサレムの町からはだれ一人、彼らと一緒に出かけてゆこうとする人はいないのです。北朝鮮では死去した指導者のために泣くことを強制されていると伝えられていますが、エルサレムの住民もまたヘロデ王の恐怖政治のもとで、自由に行動することができずにいたということでしょう。
救い主が生まれた。ヘロデ王の時代に、ベツレヘムで。
救い主か来られたのに、既に自分の民の中に来ておられるのに、ユダヤ人の中にその救い主を迎える人がいなかった、いや、気がつきもしなかった。今日の聖書はそのことを物語っているのだと思います。灯台もと暗し。まさにそれを絵に描いたような姿を当時のユダヤ人が示していたということです。しかし、ユダヤ人たちが暗さの中に座していたときに、神さまは遠くで、救い主の誕生を告げる星を見、その星に導かれてエルサレムに来る博士たちを異邦人の中から選び、召されたのでした。博士たちはヘロデの王宮を出たとき、頭上に、かつて東方で見たあの星を再び見いだし、大きな喜びにあふれました。そしてエルサレムからベツレヘムへ星に導かれて、ついに救い主のいるところへたどりついたのです。
わたしたちは今年のクリスマスを迎えて、どこにクリスマスの星を見つけることができるのだろうかと、説教のはじめに申しました。この年、あまりに大きな悲劇を経験したゆえに、わたしたちの間にクリスマスの星を見いだせない、わたしたちの間にはクリスマスの喜びがない、正直、そう思っている方が少なくないのではないでしょうか。それはちょうど、あのヘロデ王の時代に、ベツレヘムで救い主が生まれていても、ユダヤの国全体は暗くて、どこにもその光が見いだせなかったのに似ています。あの時代のユダヤ人の状態と今のわたしたちの状態が同じなのではないでしょうか。
しかし、ユダヤの国が暗く、人々が星を見いださず、それに気づきもしなかったときに、神さまは、ユダヤの人々が知らない遠くの国で、ユダヤの人々が思いもかけなかった占星術の博士たちにベツレヘムの星を見せておいでになったのです。そして、その占星術の博士を通して神さまはクリスマスの知らせをもたらされ、確かに、彼らを救い主のもとへ導いてゆかれました。今日の聖書の御言葉はそうわたしたちに告げています。
そうであれば、わたしたちはもう一度思いを新たにしていただいて、遠い異国の博士たちがベツレヘムの星を仰いだように、わたしたちも救い主の星を仰ぐ者とされたい。そして、イエス・キリストが救い主としてこの世に来ておられることに気づかされ、救い主キリストのもとへ導かれて行く者にしていただくことを強く願わずにおれません。わたしたちが生きている時代がヘロデ王の時代のように暗いからと言って嘆く必要はないのです。神さまは人の思いを越えてキリストをそのような時代のただ中に生まれさせなさいました。その星は闇の中に光り輝いているからです。
むしろ、わたしたちは自分自身の生き方を、信仰者はその信仰の態度を顧みるべきだと思います。すなわち、エルサレムの祭司長や律法学者が聖書の知識は正しくもっていて、救い主の生まれる場所はエルサレムだと知っていても、そこにむけて心も体も動かそうとはしなかったように、わたしたちも救い主のいますところに向かって一歩でも二歩でも近づいて行こうとする生きた信仰を欠いてしまってはいないかということです。博士たちがそうであったように、神さまが自然界において、世界において生きて働いておられるのを見て、そのみ業を、畏れをもって認めつつ、つねに聖霊によって導かれて生きて行く者とされたいと思います。博士たちが、星を見て心からの喜びに溢れたように、わたしたちも神の導きを畏れと喜びに満たされて知る者とされたいと思います。
博士たちはキリストに出会ったあと、夢でヘロデ王のもとに帰るなと告げられ、別の道を通って帰って行きました。今日、2011年のクリスマスに、わたしたちも暗いヘロデの支配の下に帰るのでなく、このクリスマス礼拝から、救い主の誕生を喜び祝う者として、来たときとは別の道を通って帰ろうではありませんか。
福岡城南教会牧師 澤 正幸